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バリのひと雫

* 写真家 加藤文太郎が、「直観」による写真と言葉で独自の表現をする 作品集。 大きいサイズの写真を使用。

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カムとカミについて

潜象の存在は光以上の超高速で、大宇宙空間に波及する。その力を「アマハヤミ」として縄文前期の日本人は感覚してきた。アマとは、「アらゆるもののハジマリ」としての始元量で、目に見る事は出来ぬが、全てのものを生み、育て、そして又、全てのものがそこへ還ってゆく、と言う思念である。彼らは、そのアマが微分された「アメ」の状態で、宇宙の全域に密充填的に敷かれている様相を観じ、又、そのアメの濃淡からウヅマキ流が起こる。アマの微粒子「マリ」は変遷して、サヌキ(男電気)とアワ(女電気)の電気粒子となって、マクミ(磁気)やカラミ(力)を現し、又、『全ての物質の中に入り込んで』、例えば原子核や細胞核のようにその生命を支配し、又、アマウツシの実体として、自分たちの心身に絶えず交流していると観じた。アマの微粒子「マリ」は変遷して、サヌキ(男電気)とアワ(女電気)の電気粒子となって、マクミ(磁気)やカラミ(力)を現し、又、『全ての物質の中に入り込んで』、例えば原子核や細胞核のようにその生命を支配し、又、アマウツシの実体として、自分たちの心身に絶えず交流していると観じた。日本語は〈アマ〉と言う言葉で、アマ始元量を表すと同時に、女性もアマであり、天も海もアマと呼んだのであろう。
アマは宇宙球全体に遍満して〈マ〉を構成する始元量であり、〈アメ〉はその微分を示し、〈マリ〉はその結球を意味する。それは目に見えないまま、左マワリ右マワリに旋転し、集合したり、融合したり、重合したりして〈マ〉全体に渦巻いている。そして宇宙の環境条件に応じて、マリは電気粒子〈イカツ)となって「現象界」に表れ、磁気や力の位相を有ち、モコロを構成し、次第に目に見える諸現象、則ち、天体や天体上の諸物質をカタチづくる「元素」へと変遷してゆく。彼らは、潜態の中に更に、根元的なアメ(マの微分)とマリ(マの結球)を感じ分けている。文献には、商業の契約や、戦争の記録、又はウラナヒや呪詛的、神秘思想的なものは全くなく、彼らの直観した〈イノチ〉のサトリと、そのサトリに基く〈クラシ〉の知恵がイキイキと歌われている。カミ・カム。上古代人の〈カミ〉とは「神」ではなく、川の流れの源を「川上」と言うように、そのモトを「カミ」へ「カミ」へと遡って、その本質をあくまでも知ろうとする思念である。〈カム〉とは「カタチが見えぬ」と言う意味である。一般に「見えない」と言う時は、形が小さすぎて見えない場合も、大きすぎて見えない場合もある。
その意味では、アマも、アメも、アマヒもカムであり、更にそのアマのモトはカミ。縁会って、ここにこられた読者に於かれましては、どうか、「ミ」を入れて、カタカナ(日本語)に生命の発生の物理(潜象物理)を込めて創りだした、我々の祖先の思念を感受していただきたい。

AMAGUMO
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  1. 2015/12/20(日) 01:09:40|
  2. 文写家
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モノとナ

物と名(日本語の造語の論理)
 どの民族でも、物には皆、名がつけられている。始めてその名をつけた人には、必然的な意味が
あったのだろうが、今日では、物と名との関係を辿ることはほ殆ど不可能なことが多い。


ところが、われわれの日本語を、始め造った人々は、モノの名を(数詞も名詞も動詞もこめて)そのモノに最もふさわしく、即ち、その名を聞けば(又発音すれば、)そのヒビキが、まさしくそのモノの本質本性を示す陽に(ヒビキあうように)極めて厳しく、(同時に寸志な心で、自分のミを以て)そのヒビキを感受し、共振しながら名づけたのであろう。自然発生のままに何となく‥では無く、ハッキリとした意識を以て、自分達の思(世界観・宇宙観)を示す主要なコトバを造語し、更に、その理由を、調子の良いウタににして、人々に教え示して居た。
そしてソレが民族の言語の基本形となり、(日本語の文法の「論理」として、)上古代(縄文前期よいわれる)以来、今日迄受け継がれ続け、他民族のさまざまな影響を受けながらも、上古代語の思念が、現代迄生きて居た。

ということは、どの民族にも類例を見ない事実である。
日本語が他所から屢々「非論理的」だといわれるのは、既知の、西欧語の論理だけが論理だ無いからであると思い込み、この、日本語の論理をしらないからである。
その証拠に、一旦この日本語を貫く、「論理性」を鋭い「カン」によってマスターした者は、外国人でも、日本人そこのけの達者な日本語を使って、独自の日本研究が出来るし、たとえ日本人でも「感受」無い学者等は、西欧人の真似しか出来ないのである。







R0025251-編集
  1. 2015/12/08(火) 02:54:38|
  2. 文写家
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ニホンの文化と民族の危機に際して








人間(ホモサピエンス)の特性は、知を求めることであり、古今東西、昔から人々はそれを、あらゆる角度から努めて来た。
そして登る道は様々ではあるが、ゆきつく所は同じであるということでは、各種学問の発達に見られるように、中でも比較言語学、比較生態学等の進歩に、世界中の心ある人々の共通の間観主観になる。
どの道から登るのも全く自由ではあるが、唯、私達は日本人である。
いかに勉強して、英語、中国語、インドネシア語等を学んだとしても、彼らの民族の文化を、彼らのように体得するには不可能といえる。
逆に、彼らがいかに精進しても、私達のように日本に文化を体覚することはあり得ないことである。
民族が生まれ、育って来たその文化の根の深さは、他の民族にとって、個人の才能や努力の遠く及ぶものでは無いからだ。

私達は自分が日本人であり、他の民族の誰もが、どうしても理解しようのないところまで、事細かにわかり得る日本の文化を、日本人の直情をもって探求し、人間の知の正しい在り方を明らかにしなければならないと考える。
私達にとって最高の文化は、数万年前から幾多の侵略にあっても、脈々と受け継がれ、伝えられて来た、私達の祖先の創造した日本語によるものである。

なぜなら、一般に古代を論じる場合、数千年が単位であるが、ここでいう古代とは、万の単位の古代である。
今なお、現在の智識では、考古学的な遺跡や遺物の実証をもってするわけにはいかないが、一般的に人々が昔と思っている、原始宗教や神秘思想は、千の単位のムカシのものであり、ここでいう古代のものとは全く異質のものであることを記しておく。

ニホンの文化と民族の危機に際して。














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テーマ:生きること - ジャンル:心と身体

  1. 2014/08/26(火) 01:48:33|
  2. 文写家
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美感電圧











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天然や自然そのものに「美」の意識はないが、天然自然の為すワザ、つまり空や雲や星や月海や山や石や花や鳥、人体等の姿に「美」を感じ出したことに、人類の文化の発祥、人間的心情の芽生えがあり、その「美」とは何であるか?どうして天然自然が、そのような「美的」な成りや「美的」なハタラキをするのか?を解明する度合いや様相を以て、その民族の文化のレベルやニュアンスが表れると言える。


絵や彫刻や音楽や詩や歌等の芸術と呼ばれる分野は、この「美」を指向し、「美的なワザ」に参加するものだが、「美」は芸術や文学や美学だけのものではない。

各種の方面に分化発達した学問や技術も、人々の日常生活も、この天然自然の「美」に感応し共鳴するまでに内容が充実のでなければ、真の文化とは言えないし、科学も、天然や自然の美的機構、つまり機能と構成を、充分に説明できるものでなければならないといえる。



優れた画家が対象を見つめる眼は、画家の自由な選択にまかされているが、ここぞと思って、イーゼルをすえて眺める、その場所が実は、その付近で最も電圧の高い地であるという「美感電圧」の物理と一致することが多い。

則ちその場から眺める風景が最も美しく、人は、そこに立てば最も快くなり、それを「美」と感じ、画家は絵心をそそられるわけだ。

そして、そこで描かれる美の創作には、画家個人の能力だけではない、その地の高い電圧、則ち癒しのエネルギーの参与がる。
「天才」という言葉を作った人は、まさにこの「天(アマ)の才(ハタラキ)」という直観があったのだろう。


私自身、写真家を撮り、表現する者として、人物を撮る時も風景を撮る時も、常に高度の美感電圧地を直観し、撮影する事が多い。

仏像を拝するにしても、最も崇高な美を感じさせる場所があり、家を建てるにも、ものを置くにも、最も安定した、落ち着きを得る場所方角がある。





それに適えば、人は健康になり、精神も和らぎ、何よりも気もちがよく、そのような場所は美しく、そこにあるものは「美」を感じさせる、美的機能構造をもつのである。我々は、電圧計で測定して、はじめてなる程とわかるが、古代の人々は電圧計等計らなくても、素直な感によって、それらを知っていたのである。


科学が、現象面に表れたものや実用に役立つものだけを追いかけ、手に負えないものは勝手にカットし、見えないものは無視し、「美」などは科学が扱うものでは無いという態度では片手落ちということである。










  1. 2014/08/12(火) 15:28:20|
  2. 文写家
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相似る形

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ブロマガって何?
  1. 2014/08/05(火) 00:36:09|
  2. 文写家
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