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バリのひと雫

* 写真家 加藤文太郎が、「直観」による写真と言葉で独自の表現をする 作品集。 大きいサイズの写真を使用。

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印度や亜細亜への憧れ











 西欧人の若者達が、自分たちの文化に愛想をつかし、インドやアジアへと向かう流れは60年代からあったが、日本人まで追従するのは、もはや地球上に於て、僅かにインドや東南アジアの一部の民族にしか、彼らの求めるものを見出せなくなったからだろうか。


 アラブ、アフリカ、エスキモー、アイヌ、インディアンなど、最近まで彼らの郷愁をよんだ民族も、かつての日本のように、近代化の波に巻き込まれてしまい、僅かにインドや東南アジアの一部の民族が、その対象として残るのみになったからだろう。


インドは、古(イニシエ)の民度の高さ(ヴェーダウパニシャッドから釈迦法華アソカに至る伝統文化)がベースとなって、一般民衆に至るまで、染み渡った世界観や人生観の根強さがある。

 最近の近代化攻勢にも動じないこの民族的な思念の頑固さは、「インド人の心」とも言うべきものだから、守り抜いて欲しいものではあるが、他国の支配に屈従することを拒む為に、経済的にも軍事的にも独立を確保しなければならない。

この矛盾した道を両立しなければならないインドの指導者の努力は、思いやられるものがある。



 かつて、我国も、奈良朝、明治、敗戦後にこの試練に遭遇したが、この国の敗戦後の指導者は、知性の低さから西欧の「近代化」政策に、難なく取り込まれてしまった。
しかも、その張本人の肖像をお札に刷って、民衆に拝ませているありさまである。


 中国も遂に「近代化」踏み切ってしまい、インドも恐らくは同じ運命を辿らざるを得なくなるであろうが、今の所は、その民族的思念の頑固さと指導者の無力さが、アラブ、アフリカの現状のような暴走を食い止めてるようである。



 又、現在私が滞在する、多民族国家であるインドネシアも同様に、近代化攻勢をあびているようだが、現大統領は、虎視眈々と、巧みに政治、外交政策を操っているように見える。
 











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  1. 2014/02/23(日) 02:21:45|
  2. バリの日常
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直観性能と道

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ブロマガって何?
  1. 2014/02/18(火) 23:37:49|
  2. 文写家

直観

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ブロマガって何?
  1. 2014/02/18(火) 02:44:26|
  2. バリの日常

アリガタイという思念








アリガタイ
龍のようなものが写り込んだ、夜明け前のバリ島の聖峰 Gunung Agung














 「アリガタイ」とか「バチが当る」という言葉の発想は、日本(語)独特のものである。
それは、Aという人間とBという人間の間だけで、感謝したり、憎んだり、契約を結んだりというレベルだけでなく、自分等の後ろに常に「存在」する大きなモノ(チカラ)の関わりをいつも感じているのである。

 単に、AとBの間の争いや、親愛、利害関係であれば、「I Thank You」や、「Give and Take」、「目には目を、歯には歯を」というやりとりでの計算づくでよいが、日本人(語)の心理は、それだけでは収まらず、AがBに感謝の念を持つとき、彼らはどうしてもその奧に常に「存在」する大きなチカラ(神ではないカミ)を感じるのである。
 それが、「アリガタイ」という言葉を生み出した心理であろう。

 それは、西欧人が「神」を思うのと似てはいるが同じではない。
何故なら、西欧人は、「神」をアナタ(You)と呼ぶが、日本人は、カミを、「アナタ」とは呼べないのである。

「アリガタイ」も感謝の言葉には違いないが、「アイ」が「ユウ」に感謝する、というスケールではなく、個人差はあるが、見えない大きなカミ(チカラ)を直観する思念である。

 同様に、親、あるいは親的な存在に対しても、日本人は二人称を使わない。
現代の他国語に、類のない、特殊な敬語の発達をしたのは、このような心情があるからである。
 敬語の最も端的な表れは、「相手を二人称で呼べない気持ち」がある事だ。
つまり、目上からは、アナタともオマエとでも呼べるが、目下からは二人称は使えない。
もし使えば、通常その人間関係は終る。
 しかし、西欧人は神も、親も、君主であろうが、二人称で呼べるが日本人には、それが出来ないのである。
 
 そのわけは、古代の日本人が、その見えない大きなカミ(チカラ)に対する心情が、親や、恩師、主人や社長、そして天皇や、神仏に移っている為である。


 
 ただし、ここに大きな問題が発生してくる。

つまり、目下の人々が、目上の人々を二人称で呼ぶ事を「はばかる気持ち」で、つまり、その奧に常に「存在」する大きなチカラ(神ではないカミ)を観じで仰ぐのに対して、親なり師なり社長が、やはり、同様の態度で、応じさえすれば、トラブル(問題)は起らないが、そうは行かないところから、様々な歪みや害が発生することである。














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  1. 2014/02/12(水) 01:03:13|
  2. 文写家
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投影から湧きおこるモノ

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ブロマガって何?
  1. 2014/02/04(火) 04:51:40|
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