FC2ブログ

バリのひと雫

* 写真家 加藤文太郎が、「直観」による写真と言葉で独自の表現をする 作品集。 大きいサイズの写真を使用。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
  1. --/--/--(--) --:--:--|
  2. スポンサー広告

モノとナ

物と名(日本語の造語の論理)
 どの民族でも、物には皆、名がつけられている。始めてその名をつけた人には、必然的な意味が
あったのだろうが、今日では、物と名との関係を辿ることはほ殆ど不可能なことが多い。


ところが、われわれの日本語を、始め造った人々は、モノの名を(数詞も名詞も動詞もこめて)そのモノに最もふさわしく、即ち、その名を聞けば(又発音すれば、)そのヒビキが、まさしくそのモノの本質本性を示す陽に(ヒビキあうように)極めて厳しく、(同時に寸志な心で、自分のミを以て)そのヒビキを感受し、共振しながら名づけたのであろう。自然発生のままに何となく‥では無く、ハッキリとした意識を以て、自分達の思(世界観・宇宙観)を示す主要なコトバを造語し、更に、その理由を、調子の良いウタににして、人々に教え示して居た。
そしてソレが民族の言語の基本形となり、(日本語の文法の「論理」として、)上古代(縄文前期よいわれる)以来、今日迄受け継がれ続け、他民族のさまざまな影響を受けながらも、上古代語の思念が、現代迄生きて居た。

ということは、どの民族にも類例を見ない事実である。
日本語が他所から屢々「非論理的」だといわれるのは、既知の、西欧語の論理だけが論理だ無いからであると思い込み、この、日本語の論理をしらないからである。
その証拠に、一旦この日本語を貫く、「論理性」を鋭い「カン」によってマスターした者は、外国人でも、日本人そこのけの達者な日本語を使って、独自の日本研究が出来るし、たとえ日本人でも「感受」無い学者等は、西欧人の真似しか出来ないのである。







R0025251-編集
関連記事
  1. 2015/12/08(火) 02:54:38|
  2. 文写家
  3. | トラックバック:0
  4. | コメント:0
<<カムとカミについて | ホーム | OGOH OGOH - CEREMONY OF EXORCISM ->>

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する

トラックバック

トラックバック URL
http://bunshakan.blog.fc2.com/tb.php/99-8b2f9ba8
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。