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バリのひと雫

* 写真家 加藤文太郎が、「直観」による写真と言葉で独自の表現をする 作品集。 大きいサイズの写真を使用。

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「グヌン ルバ寺院 (Pura Gunung Lebah)」




8世紀頃、ジャワ島からルシ・マルカンディアというヒンドゥー教の僧侶が、バリ島のウブドに辿り着いた時、山間の川が交わる神聖な地に、聖なるエネルギーが満ちあふれていると考え、僧侶はこの地で瞑想し、建てた寺がグヌン・ルバ寺院だ。

 ルシ・マルカンディア率いる僧侶達がこの地にやってきた時、あたりには薬草(バリ語でウバドUbad)が生い茂っているのに気付いた。
この名前(薬草)からウブド(Ubud)という地名になったと伝えられて居る。










gnungruba.jpg










普段、観光客の姿も無く、ひっそりと佇んでいるこの寺に、私は一人よく訪れたものだ。
イヤシロチ、俗にいうパワースポットであるこの地に魅かれて行ったのだろう。

しかし今年になって、大改修が行われ、この一ヶ月程毎日オダラン(儀礼)が行われ、ウブドのメイン通りは連日渋滞が続いている。
そして今夜、バロンダンスの元となるチャロナランが行われた。
夜から深夜にかけて延々と続く寸劇は、丑三つ時にバロン(聖獣)と、トランス状態になるランダ(魔女)との戦いが始まる。

由緒ある寺の大改修後のオダランだけに、最高の踊り手が其れを演じるのだ。
寺の本堂には新旧、そしてウブド中のバロンやランダが集められ、そこで瞑想し、祈りを捧げる。

ヒンドゥー教徒ではない私も今、この地に住まわせていただいていることヘの感謝と、個人的に縁がある寺であり、そして隠れチャロナランヘッズということもありグヌン・ルバ同様、新たなる気持ちでバリ人に混ざり、一人瞑想し、祈りを捧げるのである。










テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真

  1. 2014/10/14(火) 03:29:07|
  2. バリヒンドゥー
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ニホンの文化と民族の危機に際して








人間(ホモサピエンス)の特性は、知を求めることであり、古今東西、昔から人々はそれを、あらゆる角度から努めて来た。
そして登る道は様々ではあるが、ゆきつく所は同じであるということでは、各種学問の発達に見られるように、中でも比較言語学、比較生態学等の進歩に、世界中の心ある人々の共通の間観主観になる。
どの道から登るのも全く自由ではあるが、唯、私達は日本人である。
いかに勉強して、英語、中国語、インドネシア語等を学んだとしても、彼らの民族の文化を、彼らのように体得するには不可能といえる。
逆に、彼らがいかに精進しても、私達のように日本に文化を体覚することはあり得ないことである。
民族が生まれ、育って来たその文化の根の深さは、他の民族にとって、個人の才能や努力の遠く及ぶものでは無いからだ。

私達は自分が日本人であり、他の民族の誰もが、どうしても理解しようのないところまで、事細かにわかり得る日本の文化を、日本人の直情をもって探求し、人間の知の正しい在り方を明らかにしなければならないと考える。
私達にとって最高の文化は、数万年前から幾多の侵略にあっても、脈々と受け継がれ、伝えられて来た、私達の祖先の創造した日本語によるものである。

なぜなら、一般に古代を論じる場合、数千年が単位であるが、ここでいう古代とは、万の単位の古代である。
今なお、現在の智識では、考古学的な遺跡や遺物の実証をもってするわけにはいかないが、一般的に人々が昔と思っている、原始宗教や神秘思想は、千の単位のムカシのものであり、ここでいう古代のものとは全く異質のものであることを記しておく。

ニホンの文化と民族の危機に際して。














nou.jpg

















テーマ:生きること - ジャンル:心と身体

  1. 2014/08/26(火) 01:48:33|
  2. 文写家
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入り日













sunset.jpg

                


 それでも日は沈む。






















  1. 2014/08/12(火) 20:21:14|
  2. バリの日常
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美感電圧











bi_201408121527257b6.jpg










天然や自然そのものに「美」の意識はないが、天然自然の為すワザ、つまり空や雲や星や月海や山や石や花や鳥、人体等の姿に「美」を感じ出したことに、人類の文化の発祥、人間的心情の芽生えがあり、その「美」とは何であるか?どうして天然自然が、そのような「美的」な成りや「美的」なハタラキをするのか?を解明する度合いや様相を以て、その民族の文化のレベルやニュアンスが表れると言える。


絵や彫刻や音楽や詩や歌等の芸術と呼ばれる分野は、この「美」を指向し、「美的なワザ」に参加するものだが、「美」は芸術や文学や美学だけのものではない。

各種の方面に分化発達した学問や技術も、人々の日常生活も、この天然自然の「美」に感応し共鳴するまでに内容が充実のでなければ、真の文化とは言えないし、科学も、天然や自然の美的機構、つまり機能と構成を、充分に説明できるものでなければならないといえる。



優れた画家が対象を見つめる眼は、画家の自由な選択にまかされているが、ここぞと思って、イーゼルをすえて眺める、その場所が実は、その付近で最も電圧の高い地であるという「美感電圧」の物理と一致することが多い。

則ちその場から眺める風景が最も美しく、人は、そこに立てば最も快くなり、それを「美」と感じ、画家は絵心をそそられるわけだ。

そして、そこで描かれる美の創作には、画家個人の能力だけではない、その地の高い電圧、則ち癒しのエネルギーの参与がる。
「天才」という言葉を作った人は、まさにこの「天(アマ)の才(ハタラキ)」という直観があったのだろう。


私自身、写真家を撮り、表現する者として、人物を撮る時も風景を撮る時も、常に高度の美感電圧地を直観し、撮影する事が多い。

仏像を拝するにしても、最も崇高な美を感じさせる場所があり、家を建てるにも、ものを置くにも、最も安定した、落ち着きを得る場所方角がある。





それに適えば、人は健康になり、精神も和らぎ、何よりも気もちがよく、そのような場所は美しく、そこにあるものは「美」を感じさせる、美的機能構造をもつのである。我々は、電圧計で測定して、はじめてなる程とわかるが、古代の人々は電圧計等計らなくても、素直な感によって、それらを知っていたのである。


科学が、現象面に表れたものや実用に役立つものだけを追いかけ、手に負えないものは勝手にカットし、見えないものは無視し、「美」などは科学が扱うものでは無いという態度では片手落ちということである。










  1. 2014/08/12(火) 15:28:20|
  2. 文写家
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ブロマガって何?
  1. 2014/08/05(火) 00:36:09|
  2. 文写家
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